勝手時空雑記

思ふこと言はでぞただにやみぬべき われとひとしき人しなければ

My best friend dreaming by the window

柔らかな陽ざしの中、今日はどんな夢を見ているのかな


「早くチェックインカウンターにゆかないと飛行機に間に合わない!」そう思いはするが、こんな時に限って道路は渋滞、電車も運転を見合わせている。「何とかしないとマズイ」。そう思っている間にも、時は進んでゆく。最後は自分の足で走り出すのだが、気持ちばかりが前に進み、疲れは増し、息も切れてくる。「ああ、やはり何ともならないか…」。そう思った瞬間、目が覚める。

 

夢は滅多に見ない方だが、たまに見る夢は何かに焦っている夢、どこかに向かっている夢。そして、そんな夢を見るのは、決まって一度、夜中にふと目が覚める時。その後、暫くの間寝付けず、布団の中で寝がえりを繰り返す。そして知らぬ間に眠りに落ちた時…。そこに何か医学的な理由はあるのだろうか。気にはなるが良く分からない。

 

夜布団に入り、朝布団の中で伸びをするまで一度も目が覚めないときには、こんな夢は見ない。いや、正確に言えば、人は寝ているときは必ず何かしらの夢を見ているらしい。でもほとんどの場合、人は起きた瞬間に見た夢を忘れる、と昔何かの本で読んだことがある。この夢という未知なるメカニズム、いつか解明される日は来るのだろうか。

 

でも、夢の中に現れる景色って、何故か懐かしい風景が多い。例えば昨日行った図書館、一週間前に歩いた商店街、一か月前に泊まった温泉宿などはまず出てこない。夢の舞台や登場人物は、幼い頃過ごした街だったり、もう何年も会っていない学生時代の友達だったりする。しかもその友達も、不思議と特に親しかったわけでもない人物が主役となるケースが多い。

 

結局人って、自分自身の記憶ですら上手くコントロール出来ていないのだろう。起きているとき、即ち、自我を認識している時、我々は好きなことや大事なことを恰も理路整然と考えているつもりになってはいるが、夢の一幕を考えるとそれも怪しくなってくる。「無意識下の自分が本当の自分である」と昔誰かが言っていた、ような気がする。

 

何だか哲学っぽい話になってしまったが、僕は中学生の頃からずっと理系の世界で生きてきた。若い頃は、起きる事象には必ず原因があり、その背景には必ず理由があると信じていた人間である。理論や計算式で説明できない、あるいは表せない現象は世の中に無いと思っていたし、それが故に数学や物理が大好きだった。でも今、週末に読む本は、不確実な歴史本、想像のエッセイ集等々。人って変われば変わるものだ。

 

さて冒頭に書いた夢の話。果たしてどんな生き物も見るのだろうか。僕は個人的に猫が大好きなのだが、一日の大半を寝て過ごす猫を見ていると、どんな夢を見ているんだろう、とふと思ってしまう。その猫(以後「彼」と呼ぶ)は、都下のとある町の住宅街に住んでいる。そして、その家の二階の窓からは、背丈の低い街路樹に囲まれた一筋の道が見える。

 

天気の良い日、彼は窓辺に寝そべり、陽に当たりながら外の景色を眺めている。時に空をゆく鳥に興味を示し、手を伸ばしながら可愛らしい声で鳴く。きっと本能で狩りをしているのだろう。それとも友達になりたいのかな。「僕も空を飛べたらなあ…」と思っているのかもしれない。僕は男だが、彼のことが大好きだ。会う度に必ず、二度三度と抱きしめてしまう。

 

その彼を家に残し、出掛ける時、果たして彼はソファーに寝そべり、気持ちよさそうにうたたねをしている。「行ってくるよ、留守番よろしくな!」

 

どんな夢を見たのか、今度僕だけにそっと話してくれよ。

 

'Alle geschlossen' during Christmas season

ドイツ版新幹線ICE、最高速度300km/hで欧州大陸を駆け抜ける

僕が初めて欧州を旅したのは80年代後半。当時同じ会社の同じ部門に配属されていたオーストリア好きな友人と共に、年末休暇を利用し、彼の地を訪れた。当時、まだ利用する人も少ない「Eurail Pass(ユーレイルパス)」を片手に、ドイツ、オーストリアリヒテンシュタイン、そしてスイスと、自由気ままな時を過ごした。

 

今思えば、何故真冬の最中、南の島ではなく極寒の欧州を旅しようと思ったのだろう。でも、生まれて初めての欧州ということもあり、出発前から胸は高鳴った。反対に、その友人は既に学生時代から何度となく渡欧しており、実に冷静そのもの。「季節は冬なので、あれを持ってゆけ、これも用意しろ」等々、実に的確、かつ小うるさいアドバイスをもらったものだ(笑)。

 

格安航空券を利用し、可能な限り費用を削った、バックパッカー張りの放浪旅。旅の計画どころか、その日に泊まる宿さえ決めていない。

 

昼前、町に到着したら、先ずはその足でTourist Informationへ。木賃宿の情報を仕入れ、時に窓口の担当者に予約をお願いし、ホテルへチェックイン。荷物を部屋に置いたら、すぐさま当てもなく町を散策。夕方、地元の安レストランで胃袋を満たした後、狭いベッドで一夜を明かす。そして翌朝には次の町へ…。何とも気忙しい、だけど楽しい旅だった。

 

しかしながら、折しも時はクリスマスシーズン。欧州の事情に詳しい方ならば容易に想像出来ると思うが、店という店は全てお休み(Alle geschlossen)。当然、レストランもお休み。そして、とどめはホテルの休業…(これ、小さな町では決して珍しくない)。

 

どこの町かは忘れたが、名前の響きに惹かれ降りた駅に人影は見当たらない。無計画に訪ね歩くホテルは全て休業状態。呼び鈴に応答すら無い(日本では考えられない)。両手に息を吹きかけ、凍える体を震わせながら冷え切った石畳を歩いた記憶は、今も忘れることが出来ない。

 

そんな中、とりわけ記憶の底に強く残っている町がある。名はPassau。オーストリアとの国境に近い、ドイツ・バイエルン州の外れに位置する小さな町である。ドナウ川(Donau)・イン川(Inn)・イルツ川(Ilz)の三河川が合流し、ドイツ語で「Dreiflüssestadt」の別名を持つ町でもある(Dreiは「数字の三」、flüsseは「川の複数形」、そしてstadtは「町」の意)。

 

その町の最東端、鷹の嘴の様な三角洲の先端に立つと、欧州の大河が合流するさまが良く見える。ゆったりとした流れが運ぶ泥や砂の違いか、二つの川の色は微妙に異なり、下流にゆくに従い、徐々に一体化してゆく。少し気取って言えば、異なる民族同士が交じり合い、ひとつの国家を形成してゆく歴史のひとコマのようでもある。

 

それまで、そんな雄大な景色を見たことのない私は、この川の流れを眺め、「ああ、欧州は大陸、複数国家の集合体なのだ」という思いを強くしたものだ。

 

さて、その後も旅は続き、一路オーストリアへ。貧乏旅行ではあるが、葵の御紋が付いた印篭張りの効力を有するEurail Passのお陰で、国際特急の一等車両に乗り放題!地域住民の方々には、おそらくあまり良い印象を与えなかったに違いない。時は日本の高度成長期。バブル経済のピーク。「ああ、Far Eastから来た小金持ちの観光客ね」と…。

 

ウィーンではお上りさんの行動よろしく、SachertorteとMelangeを堪能。それにしても師走のオーストリアは凍てつくほどの寒さだった。欧州大陸は東にゆくほど気温が下がるのだが、ウィーンは当時、西側諸国のFar East。あまりの寒さに10分と続けて街を歩けず、一日券で乗り放題の路面電車で暖を取り、体が温まったらまた外へ。そして10分後、冷えたらまた乗車…(以下くり返し)。市内を巡回する「Ring-kai-ring」は僕の命の恩人だ(笑)。

 

果たして、楽しい時間は「あっ」という間に過ぎ、成田到着。今思えば、あの旅が、後に欧州転勤の打診を受ける僕の背中を押してくれたのかもしれない。

 

当時、ドイツ赴任のチャンスを頂いたとき、何の躊躇いもなく手を上げられたこと。そして、奇しくも赴任の時期がクリスマス休暇真っただ中という最悪のタイミングだったこと(笑)。お約束どおり、そんなときに開いている店は中央駅にしかなく、連日連夜、同じ店で同じ具のサンドウィッチを齧っていたことなど、今となってはいい思い出だ。

 

その後、僕に欧州の楽しさ、奥深さを教えてくれた友人は病に臥せってしまい、何となく疎遠になってしまった。

 

暫く会えていないけど、元気にやっているだろう。今度、メールでも送ってみようか。

 

A journey back to my spiritual origins

僕のルーツと云われる氏を祀った、信州北部の町に佇む小さな神社

日本には30万種以上の苗字があると言われている。総人口が1憶2千万ちょっとだから、一苗字当たりの平均人数は400人。平均が全てを語るわけではないけれど、同じ姓を持つ同族が僅か400人だなんてちょっと衝撃的だ。「狭いとはいえ、38万平方キロメートルの国土にたった400人か…」。自分の家族や親戚以外、同じ苗字の人に会ったことが無い、という人は意外と多いのかもしれない。

 

極めて珍しいわけではないが、僕の苗字も世間一般的には少ない部類に入る。事実これまでの人生、学校の友達や会社の同僚、同じ苗字の人に出会ったことは無い。例えば、佐藤さんや鈴木さんは、自分と同じ苗字の他人を「さん」付けで呼ぶ機会が少なくないだろうが、それって一体どんな気分なんだろう。僕にとっては何だか複雑な感じだ。

 

以前、祖父から聞いた話や、何冊かの歴史書等を参考にし、自分の祖先がどこから来たのか、少しだけ調べたことがある。遠の昔に祖父も他界し、家系図や古文書も存在しない今、もう永遠にはっきりしたことは分からないだろう。でも数年前、とある歴史の記に、「ここが我が祖先のルーツとなる場所である」という解説を見つけた。

 

その記によれば、村上義清氏の一族であった我が祖先(と思われる氏一族)は、弘治元年(1555年)、および同三年(1557年)、川中島の戦いに参戦。氏一族は上杉信州先方衆として出陣し、武田軍を苦戦に陥れた。その後、天正十年(1582年)の武田家滅亡後、氏一族は上杉景勝に属し、慶長三年(1598年)会津に移住したと記されている。

 

さて、冒頭の写真。この神社は氏一族の居館跡に建てられたものである。そのきっかけは宝暦七年(1757年)、および天保十一年(1840年)、「酉の蔵屋敷」と呼ばれた居館跡からの出火により、大村集落が都度灰燼に化したこと。そのとき、村人は出生の地を離れ、遥かな異国(会津)で暮らす氏一族を想い、弘化三年(1846年)、神社境内(酉の蔵屋敷跡)に「遺愛之碑」を建て供養したとされている。

 

この話、正式な歴史書からの引用ではない(と思われる)ため、その真偽のほどは定かではない。でもその昔、この地には「後世に語り継がれる歴史上の出来事」があったことを示す、十分な証拠くらいにはなっているだろう、と考えている。

 

そんな歴史を知った今、どうしても彼の地をこの目で見たくなり、先日紅葉狩りを兼ね、遠路遥々訪ねてみた。町外れ、一住宅の脇にある小さな参道の先には、もうすっかり色褪せてしまった木製の明神系両部鳥居が見える。今は参拝する人も疎らであろう境内は、欅の落ち葉で埋め尽くされていた。

 

時は秋。こんなところに来ると人は感傷的になるもので、澄み渡る高い空を見上げながら、ひとしきり古の景色を想像した。「この風、この光…、いま我が祖先だったかもしれない人たちが生まれた場所に立っている」。

 

上手く言葉には出来ないが、嬉しくも切ないようなひととき。何故か、仲の良い友と離れ離れになった卒業の瞬間に似ている、と感じた。

 

さて、現実の世界では時間は一方向にしか流れないが、想像の世界では逆行させることが可能だ。今改めて、それは時を意識しながら生きる「人」という動物に(のみ)与えられた無二の能力であることを想う。

 

未来への創造力、過去への想像力、どちらが欠けても人生は味気ないものになるだろう。

 

人は心の中で自由に時空を旅することが出来るからこそ、今日を精一杯生きることが出来るのかもしれない。