勝手時空雑記

思ふこと言はでぞただにやみぬべき われとひとしき人しなければ

The indelible land rekindling the old days

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昔よく遊んだ小川だった場所(朧な記憶の中から)

小学生の頃、今は亡き祖母に連れられ、よく練馬の親戚を訪ねました。東武東上線の「下赤塚駅」で下車。駅前の商店街を抜け、川越街道を渡り、緩やかな坂道を登ってゆく。今ではすっかり見かけなくなった雑貨屋の店先には束子や金盥が無造作にぶら下げられており、木造アパートの玄関脇には絞り機のついた洗濯機が見える。引き戸が開いたままの中華料理店からは鼻をくすぐる匂い…。

 

この親戚は祖母のすぐ下の妹に当たり、古びた二階建てのアパートを経営していました。他にも兄弟姉妹は多かったのですが、きっと気が合ったんでしょう。訪ねる先はこの練馬の家が多かったように記憶しています。子は一男一女。祖母の妹の子供ですから歳は相応に離れていましたが、時折「としまえん」に連れていってもらったなあ。

 

今と違い、当時の練馬は辺り一面の大根畑。まだ道行く車も少なく、道路が子供の遊び場でした。全て記憶の中の風景でしかありませんが、家を出ると目の前は土がむき出しの広場、その先には地元の食品スーパー。屋号は忘れてしまったけれど、立派な銭湯もあった。そして更に足を進めると、やがて畑の先には小さな川の流れが見えてくる。

 

冒頭の写真は、その小川があったと思われる場所。数年前の秋の日、懐かしさから何十年振りに訪ねた際、何気なく取った写真です。子供の記憶ですのであまり当てにはなりませんが、メダカやアメンボを手で掬った思い出が蘇ってきました。でも当時、辺りに殆ど民家はなかった。もしかしたら少しばかり場所が違うのかもしれません(笑)。

 

だけど、幼少の頃の記憶って実に不思議ですね。鮮明に覚えている体験や風景もあれば、数年間、全く飛んでいる箇所もある。また、確かと思っている記憶ですら、よくよく考えてみると少し怪しくなってくる。時々、夢に出てきたりもするけど「あんなこと、本当にあったんだろうか…」と思うこともある。想像力を持つ人間にとって、夢と現実の境界線って、時間と共に曖昧に変化してゆくものなのかもしれません。

 

さて、その夢の中の出来事。思い出の風景・登場人物はいつも昔のまま。昭和の町並みを背景に、皆元気に微笑んでくれる。最近、歳を取ったせいか、親戚や知り合いに無性に会いたくなる時があります。実はこの遠い親戚、訪ねたとき、既に家は跡形もなく、今では連絡先も分からないまま…。

 

「どこでどうしているんだろう…」。直接会えないまでも、また記憶の地を歩きながら時間の旅でもしてみようか。

 

いま住んでいる方々にとってはさっぱり理解出来ないでしょうが、冒頭に記したとおり、僕にとって練馬は「東京の原風景」。

 

都会でもなく田舎でもない、祖母に手を引かれ訪ねる、思い出の中の理想郷(ユートピア)。