勝手時空雑記

思ふこと言はでぞただにやみぬべき われとひとしき人しなければ

A road leading to my life

遠い昔、僕の祖先もこの道を歩いたろうか…

久しぶりにブログを書こうと思います。これからは日記代わりに、淡々と日々の出来事を綴ってゆこうと思います。

 

この秋、急逝した弟の三回忌を迎えます。先日、墓に詣でてきました。僕の祖先も眠る、とある丘の上にある市営の霊園です。墓石はまだ真新しく、墓誌には弟の名前だけ。その右端に一行、「令和二年」から始まる記録がありました。

 

学生の頃から互いに遠く離れた地に生活の拠点を構えたため、年に数回会うだけの状態が何十年もの間続きました。そのせいか、亡くなって二年が経つ今でも、どこかで元気に過ごしているような気がしてなりません。その気持ちは墓誌に刻まれる名前を見ても、やはり変わらないようです。

 

ところで、先日観たある映画の一幕にこんな台詞がありました。「誰かがその人のことを思い続けていたら、死んだ人も生きていることになるんじゃないだろうか」と…。

 

周りの人々にとっては日に日に薄れゆく記憶なのかもしれません。有史以前から脈々と続いてきた人類の歴史のほんの小さな出来事なのかもしれません。でも家族にとってはいつまでも忘れることの出来ない記憶であり、出来事である、と思わざるを得ません。

 

その日、最初に同じ霊園に眠る祖父母や母へのお参りを済ませ、ふと顔を上げると、一羽の白鷺が晴れ渡った夏空をゆっくりと西へ。ほどなくして弟の墓前に向かい、手を合わせていると、今度はどこからともなく一匹の大きな蜂が派手な羽音を立て僕の右手に…。

 

鳥が好きで手乗り文鳥を飼っていた母。イタリア製の大型バイクに乗っていた弟。白鷺や蜂に姿を変え、墓参りに来た僕に挨拶に来てくれたのかもしれません。「よく来たね、元気でやっているかい」、「兄貴久しぶり、来てくれたんだ」と…。

 

墓参後は一路北に向かい、その昔祖先が住んでいたと祖父から聞かされていた土地の温泉街へ。冒頭の写真は、翌朝朝市を訪ねた際、撮ったもの。遠くに集落が見渡せる一枚です。何故か見る度に、その距離の深さが時間の長さと重なります。

 

昭和の初め、この土地の南に位置する商都の駅前に鞄店を構え、僕にランドセルや肩掛けカバンを作ってくれた祖父。この温泉が大層お気に入りだったと聞く。

 

「遠い昔、この道を僕の先祖も歩いたのだろうか…。」

 

山あいを渡る風に吹かれながら、この風景を眺めた時、ふとそんな思いが頭を過った次第…。