勝手時空雑記

思ふこと言はでぞただにやみぬべき われとひとしき人しなければ

A journey back to my spiritual origins

僕のルーツと云われる氏を祀った、信州北部の町に佇む小さな神社

日本には30万種以上の苗字があると言われている。総人口が1憶2千万ちょっとだから、一苗字当たりの平均人数は400人。平均が全てを語るわけではないけれど、同じ姓を持つ同族が僅か400人だなんてちょっと衝撃的だ。「狭いとはいえ、38万平方キロメートルの国土にたった400人か…」。自分の家族や親戚以外、同じ苗字の人に会ったことが無い、という人は意外と多いのかもしれない。

 

極めて珍しいわけではないが、僕の苗字も世間一般的には少ない部類に入る。事実これまでの人生、学校の友達や会社の同僚、同じ苗字の人に出会ったことは無い。例えば、佐藤さんや鈴木さんは、自分と同じ苗字の他人を「さん」付けで呼ぶ機会が少なくないだろうが、それって一体どんな気分なんだろう。僕にとっては何だか複雑な感じだ。

 

以前、祖父から聞いた話や、何冊かの歴史書等を参考にし、自分の祖先がどこから来たのか、少しだけ調べたことがある。遠の昔に祖父も他界し、家系図や古文書も存在しない今、もう永遠にはっきりしたことは分からないだろう。でも数年前、とある歴史の記に、「ここが我が祖先のルーツとなる場所である」という解説を見つけた。

 

その記によれば、村上義清氏の一族であった我が祖先(と思われる氏一族)は、弘治元年(1555年)、および同三年(1557年)、川中島の戦いに参戦。氏一族は上杉信州先方衆として出陣し、武田軍を苦戦に陥れた。その後、天正十年(1582年)の武田家滅亡後、氏一族は上杉景勝に属し、慶長三年(1598年)会津に移住したと記されている。

 

さて、冒頭の写真。この神社は氏一族の居館跡に建てられたものである。そのきっかけは宝暦七年(1757年)、および天保十一年(1840年)、「酉の蔵屋敷」と呼ばれた居館跡からの出火により、大村集落が都度灰燼に化したこと。そのとき、村人は出生の地を離れ、遥かな異国(会津)で暮らす氏一族を想い、弘化三年(1846年)、神社境内(酉の蔵屋敷跡)に「遺愛之碑」を建て供養したとされている。

 

この話、正式な歴史書からの引用ではない(と思われる)ため、その真偽のほどは定かではない。でもその昔、この地には「後世に語り継がれる歴史上の出来事」があったことを示す、十分な証拠くらいにはなっているだろう、と考えている。

 

そんな歴史を知った今、どうしても彼の地をこの目で見たくなり、先日紅葉狩りを兼ね、遠路遥々訪ねてみた。町外れ、一住宅の脇にある小さな参道の先には、もうすっかり色褪せてしまった木製の明神系両部鳥居が見える。今は参拝する人も疎らであろう境内は、欅の落ち葉で埋め尽くされていた。

 

時は秋。こんなところに来ると人は感傷的になるもので、澄み渡る高い空を見上げながら、ひとしきり古の景色を想像した。「この風、この光…、いま我が祖先だったかもしれない人たちが生まれた場所に立っている」。

 

上手く言葉には出来ないが、嬉しくも切ないようなひととき。何故か、仲の良い友と離れ離れになった卒業の瞬間に似ている、と感じた。

 

さて、現実の世界では時間は一方向にしか流れないが、想像の世界では逆行させることが可能だ。今改めて、それは時を意識しながら生きる「人」という動物に(のみ)与えられた無二の能力であることを想う。

 

未来への創造力、過去への想像力、どちらが欠けても人生は味気ないものになるだろう。

 

人は心の中で自由に時空を旅することが出来るからこそ、今日を精一杯生きることが出来るのかもしれない。