勝手時空雑記

思ふこと言はでぞただにやみぬべき われとひとしき人しなければ

My best brain training through life

小学生の頃、食品の空き瓶で作った将棋駒ケース

「趣味は何ですか」と訊かれたとき、必ず答えに入れる三つのものと言えば、旅行、読書、そして将棋でしょうか。コロナ禍が続く中、旅に出る機会は大幅に減りましたが、読書に関しては毎週末、近くの図書館に出向き、手当たり次第、気になった本に目を通しています。

 

上記二つの趣味に共通することと言えば、好きな時に好きなだけ没頭出来ることでしょう。しかし、将棋だけは相手あっての話。無論、ひとりで楽しめる詰将棋や定跡の研究もありますが、やはり誰かと一手ずつ、互いの持つ知識をぶつけ合いながら駒を進める実戦が、最も充実した楽しい時間です。

 

さて、巷では藤井聡太竜王を代表とする若手棋士の活躍により、将棋ブームが到来しています。しかしながら、AIの劇的な進化も、それに勝るとも劣らない影響を与えているのではないでしょうか。盤面の状況が瞬時に可視化・定量化され、容易に指し手の優劣が分かるようになったことも、このブームに一役買っていることでしょう。

 

話は変わりますが、ちょっと昔、定期的に通う将棋道場が城東地区にありました。が、席主が高齢、かつ持病持ちだったため、数年前、残念ながら閉鎖となってしまいました。近くには安くて美味しいとんかつ屋もあり、電車を乗り継いで通うことが週末の楽しみでした。以来、暫くの間、盤を挟む相手がいない状態が続きました。

 

その後、縁あって転職し、新天地へ。嬉しいことに、現在勤務する会社には好敵手(ライバル)がいます。学生時代、将棋仲間の一人には、その後プロとなり、NHK杯でも優勝した振り飛車の使い手がいたと聞きます。そんな天才に揉まれただけあり、まあ強い…。十局指して二三局勝てれば良い方でしょうか。週に数回、お手合わせ頂くことが習慣となっています。

 

そして今日も敗戦…(笑&涙)。会社からの帰り道、都内を縦断する地下鉄に揺られながら、「あのとき、何であの手を指さ(せ)なかったんだろう」と一人脳内感想戦を行うこともしばしば。

 

レベルは天と地ほど違いますが、藤井聡太竜王も何かのインタビューで答えていたように、完璧に指せたと思う将棋は年に一度もありません。でも、それだからこそ、子供の頃から飽きることなく、ここまで続けて来られたと言えるのかもしれません。

 

冒頭の写真に掲げた自作のケースを見るたび、小学校入学前、生まれて初めて母にこの駒を買ってもらった街角の本屋を思い出します。

 

将棋はこれからもずっと続けてゆきたい、我が人生最良の「脳トレ」です。

 

Memories come back with scent of vinegar

ちらし寿司は大人のためのお子様ランチだ!(笑)

僕が生まれ育った家は町家づくり。間口は狭く、奥行きがある細長い構造をしていました。前回、祖父が鞄屋を営んでいたことを書きましたが、表玄関は仕事場に直面する全面のガラス戸。その脇に、人ひとりがやっと通れるほどの木戸が設けられていました。

 

その木戸を潜ると細長い路地が中庭へと続く。そこには小さな池があり、僅か数匹ながら鯉が泳いでいたことを記憶しています。そしてその奥には井戸を携えた裏庭が。夏にはこの井戸から冷たい水を汲み、よくトマトや西瓜を冷やしていました。

 

そんなつくりからも想像出来るとおり、生家は商店街のほぼど真ん中。通りの同じ並びには、端から順に、床屋兼喫茶店・煎餅屋・寿司屋、そして僕の家を置き、家具屋・骨董品屋・自転車屋と続いていました。そして角を曲がると材木屋、その先に豆腐屋があった。

 

実は僕自身、あまり記憶には無いのですが、夕方豆腐を買いにゆくと、帰りには店主の手によって、決まって低いトタン屋根の上に乗せられたようです。「ようです」というのは、小学生になった頃、祖母から聞かされた話だから…。おそらくは恐怖心から、幼心の記憶から奇麗に消されていたのかもしれません。

 

でも、このような情景は全て過去の話。数十年もの昔、市街地再開発の名の下、商店街はすっかり様変わりしてしまいました。今でもあるのは煎餅屋と家具屋くらい。豆腐屋も店舗自体は残っていますが、果たして営業をやっているのかどうか…。時の流れとは言え、生まれ育った町が変わってしまうのは、何となく寂しいものですね。

 

果たしてそんな環境で育ったためか、子供の頃から鮨が大好きです。でも、当時の僕はまだ小学生低学年だったから、頂くネタはかんぴょう巻きや玉子ばかり、そしてたまにかっぱ巻き…。ちなみに、寿司屋の屋号は「菊寿司」でした。

 

休みの日の朝など家の前に出ると、隣から酢飯の何とも言えないいい匂いがしてくる。でも、その頃の鮨は高級品だったため、おいそれと気軽に食べられるものではありません。思えば日本も豊かになったものです(当時はバナナも高級品…笑)。

 

さて、冒頭の写真。すっかり大人になった僕が時折暖簾をくぐる、とある寿司屋のちらし寿司(大)です。町こそ違うもののやはり商店街の一角にあり、地元では有名な老舗とのこと。穏やかな大将と威勢の良い息子さんの二代で切り盛りするお店です。

 

個人的には鮨って当たり外れがそれほど大きくない料理のひとつだと思っていますが、事ちらしに限ってはそうでもありません。特にご飯(シャリ)が美味しくないと箸が進まない。その点、この寿司屋はネタは勿論のこと、シャリの鮮度がいつ訪れても抜群にいい。

 

残念ながら「菊寿司」でちらしを頂いたことは一度も無かったけれど、当時、きっと同じようなおいしいお米を、お客さんに提供していたことでしょう。

 

写真のちらしを頂くたび、鼻腔をくすぐる酢飯の匂いと共に、そんな遠い日の記憶が懐かしく蘇ってきます。

 

A road leading to my life

遠い昔、僕の祖先もこの道を歩いたろうか…

久しぶりにブログを書こうと思います。これからは日記代わりに、淡々と日々の出来事を綴ってゆこうと思います。

 

この秋、急逝した弟の三回忌を迎えます。先日、墓に詣でてきました。僕の祖先も眠る、とある丘の上にある市営の霊園です。墓石はまだ真新しく、墓誌には弟の名前だけ。その右端に一行、「令和二年」から始まる記録がありました。

 

学生の頃から互いに遠く離れた地に生活の拠点を構えたため、年に数回会うだけの状態が何十年もの間続きました。そのせいか、亡くなって二年が経つ今でも、どこかで元気に過ごしているような気がしてなりません。その気持ちは墓誌に刻まれる名前を見ても、やはり変わらないようです。

 

ところで、先日観たある映画の一幕にこんな台詞がありました。「誰かがその人のことを思い続けていたら、死んだ人も生きていることになるんじゃないだろうか」と…。

 

周りの人々にとっては日に日に薄れゆく記憶なのかもしれません。有史以前から脈々と続いてきた人類の歴史のほんの小さな出来事なのかもしれません。でも家族にとってはいつまでも忘れることの出来ない記憶であり、出来事である、と思わざるを得ません。

 

その日、最初に同じ霊園に眠る祖父母や母へのお参りを済ませ、ふと顔を上げると、一羽の白鷺が晴れ渡った夏空をゆっくりと西へ。ほどなくして弟の墓前に向かい、手を合わせていると、今度はどこからともなく一匹の大きな蜂が派手な羽音を立て僕の右手に…。

 

鳥が好きで手乗り文鳥を飼っていた母。イタリア製の大型バイクに乗っていた弟。白鷺や蜂に姿を変え、墓参りに来た僕に挨拶に来てくれたのかもしれません。「よく来たね、元気でやっているかい」、「兄貴久しぶり、来てくれたんだ」と…。

 

墓参後は一路北に向かい、その昔祖先が住んでいたと祖父から聞かされていた土地の温泉街へ。冒頭の写真は、翌朝朝市を訪ねた際、撮ったもの。遠くに集落が見渡せる一枚です。何故か見る度に、その距離の深さが時間の長さと重なります。

 

昭和の初め、この土地の南に位置する商都の駅前に鞄店を構え、僕にランドセルや肩掛けカバンを作ってくれた祖父。この温泉が大層お気に入りだったと聞く。

 

「遠い昔、この道を僕の先祖も歩いたのだろうか…。」

 

山あいを渡る風に吹かれながら、この風景を眺めた時、ふとそんな思いが頭を過った次第…。