勝手時空雑記

思ふこと言はでぞただにやみぬべき われとひとしき人しなければ

A glorious experience in true darkness

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信州に建立された無宗派の仏教寺院「善光寺

江戸時代後期「一生に一度は善光寺詣り」と謳われた、言わずと知れた信州の大寺院です。訪れたのは年の瀬も押し迫った師走。あいにくの雪が朝から降りしきる、本当に寒い一日でした。「こんな日に参拝するのは僕だけだろう」と思っていたところ、参道から一直線に本堂を目指して歩いていらっしゃる女性が一人、ふと目に留まりました。

 

写真に造詣が深いわけではありませんが、フレームの中にぽつり、遠く人影が入ると、無機質に思える風景にいきなり命が吹き込まれたような錯覚に襲われます。日頃、そのような状況を狙って待つわけではありませんので、本当に偶然の産物です。いわゆるポートレートとは異なり、人物の顔が写っていないことも、私的には重要な条件のひとつです。

 

旅から戻り、改めて写真を眺めます。「あの時偶然、同じ場所、同じ時間に居合わせたあの人、どこから来て、どこに向かったんだろう」。「またどこか知らない土地を旅しているんだろうか」などと取り留めもない空想を巡らせます。時に短い言葉を交わす出会いもありますが、鮮明に記憶に残るのは、何故か遠くから眺めただけの旅人です。

 

さてこの後、本堂にお参り。久しぶりに「お戒壇巡り(胎内巡り)」を体験しました。以下は善光寺HPからの受け売りですが、お戒壇巡りとは『瑠璃壇床下の真っ暗な回廊を巡り、中ほどに懸かる「極楽の錠前」に触れることにより、錠前の真上に鎮座されるご本尊との結縁を果たし、往生の際には極楽へのお迎えをお約束頂ける道場』のこと。

 

「牛にひかれて善光寺参り」ではありませんが、日頃は信心の欠片も無い僕も、ここに来る度、自然と敬虔な気持ちになります。初めて体験したお戒壇巡りは、確か小学生低学年の頃だったか。善光寺を心から愛し、年に数回のお参りを欠かさない母に手を引かれ、暗闇への恐怖と不安の中、必死に後をついていった記憶しかありません。

 

この日は広い本堂に僕一人。写真の女性はお参りだけを丁寧に済ませ、帰路についたようです。お戒壇巡り入口の階段を下ると真の闇。回廊には僕ただ一人。これ以上ない静寂の世界です。本当に物音一つ聞こえない。聞こえるのは僅かに自分の心臓の鼓動だけ。高レベルの無響室に入られた方は想像出来ると思いますが、無音過ぎて逆に鼓膜が痛くなる感覚に襲われました。

 

「母の胎内に眠るってこういう感覚なんだろうか…」。よく聞く台詞ですが、この言葉がこの時ほどしっくり馴染んだ機会を他に知りません。

 

戒壇から戻ってみれば、誰一人いない本堂。凛と冷えた空気。静かに降り積もる雪の音…。

 

特別な体験・記憶って、僕にとっては何物にも代えがたい、形のない一生の宝物です。