勝手時空雑記

思ふこと言はでぞただにやみぬべき われとひとしき人しなければ

People live while meeting people

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鳥居の向こう、未来への祈願か、それとも過去への回想か…

もう何年も前の焼けるような夏の日、東海地方のとある神社を訪れた際、整然と並ぶ鳥居の美しさに魅せられ、ふとシャッターを切った際、偶然に撮れた写真です。整然と並ぶ絵馬に見入る女性の後ろ姿を特段意識したわけではありませんが、鳥居が作る四角い空間の隅に狙ったように収まった立ち姿を見る度、どことなく構図の美しさを感じる一枚です。

 

以前の記事で、「フレームの中に人影が入ると、無機質に思える風景にいきなり命が吹き込まれたような錯覚に陥る」といったようなことを書いた記憶がありますが、この写真などは正にその典型。でも、大事なポイントは、あくまで風景が主役であること。人物は決してその存在を主張してはならない。実に勝手、かつ個人的な拘りに過ぎませんが。

 

それにしても、人は一体、人生の中で何人の人とすれ違うのでしょう。人里離れた山あいの一軒家にでも暮らしているのであれば話は別ですが、都会に暮らす人などは間違いなく日に数千人以上の人を視界の中に捉えている筈です。無論、そのひとりひとりを意識しているわけではありませんので、一瞬の記憶にすら残らないでしょうが…。

 

でも、そんなすれ違いの中で、時に人は一生を共にする異性・同性に巡り合います。家族はある意味、選択の余地のない必然の出会いでしょうが、幼馴染み、学友、ビジネスパートナー、そして恋人等は、星の数ほどの出会いの中から本人同士が互いの意志を確認し、末長く付き合うことを約束する、ある種、天に導かれた特別な関係なのかもしれません。

 

しかし、その一方でまたこうも思います。もしかしたらこの世には顔どころかその存在さえ知らない、今の知り合い以上に気の合う未だ見ぬ人がいるであろうことを。瞬時に膨大な量の情報がネット上を飛び交い、地球の裏側まで24時間以内に移動出来る21世紀の世の中でさえ、人は狭い世界の中で人と出会い、その人と共に生きてゆくという不思議さを。

 

でも、そんな限られた時間・空間の中で出会う人だからこそ、人はその繋がりを最大限大事にして生きてゆかなければならないのでしょう。若い頃は人嫌いな一面もありましたが、今では旅先などで何気ない言葉を交わした人にさえ、多少の縁を感じてしまい、長々と無駄なおしゃべりをしてしまいます。実(げ)に人って変われば変わるものです(笑)。

 

さて、今僕の周りにはたくさんの大切な人がいます。でもその大切さは、決して付き合いの長さに比例したものではないことを実感しています。それほど長い時間を一緒に過ごしたわけではないけれど、「一生この人の側に寄り添っていたい」「自分の命が尽きるまで力になってあげたい」という思いに駆られる人って、確かにこの世の中にいる。

 

そしてその人の傍らには、いつも可愛らしい小さな家族(多くの人々はその家族を「猫」と呼びますが…笑)が寄り添っています。

 

勿論、その「家族」とも、これからもずっと同じ時を過ごしてゆきたいと、心から願っています。